015 苫原孝弘先生の死に際して

17日朝、訃報が届いた。知らせるべき人に知らせ、礼服を用意して、それでも自分は聞き間違えたのではないかという思いがあった。会場に着いたら笑われるか、ひんしゅくをかうのではないかと。

18日葬儀に参加した。奥さんの、主人の顔を見てやってくれという言葉に甘えて拝見した。わずかに笑みを浮かべたようで、安らかできれいな顔。見つめていると目を開けて私をチラッと見てにこっと笑いそうな、ただ眠っているだけのような、声をかけると返事が返ってくるのではないかと思われるほど。

苫原先生が世話してきた、ギター愛好家が集まってひと晩楽しむ、年に1度のイベントへの参加。これからはもう廿日市に泊まりに行くことはないんだと思うとぐっと悲しみがこみ上げてくる。廿日市へ行くことが、苫原先生に会いに行くことがわたしには大切で、うれしくて楽しい時間であったことだと思い知らされる。ギターを通して私という人間を認めてくれ暖かく迎え入れてくれる場所であった。

喪失感。自分の内の何かが失われてしまった。別れてさびしいというだけではなくて、大切なものをなくしたという実感。

出会ったのは、私のギターの恩師からの知らせで、修行時代の同門の仲間がホームページを開いたからみてくれというのがきっかけだった。場所を見ると車で1時間半くらい。それならネット上だけの軽い付き合いというより、ギターを持って会いに行ってみようと連絡した。待ち合わせ場所のコンビニの駐車場で、クリーム色がかった白い3ナンバーの乗用車が近づいてきた。白ひげに若干赤ら顔の初老の男性の顔がフロントガラスの向こうにいた。降りてきて「てっちゃん・・・でしょ、苫原です」と挨拶された。

自宅では大阪時代の話、恩師との関係、わたしが自分のホームページに書いていたギターレッスンの様子が、自分の経験と重なると笑いながら話してくれた。持参したギターで少し演奏すると、大事なことはちゃんとやっているとほめてもらった。「来年は還暦コンサートを開く」という話であった。あれから6年。こんなに早く、急に、言葉も交わせずに別れが来るとは思いもよらなかった。

演奏会や発表会、苫原先生のおかげで演奏する機会を与えてもらったこと、苫原ギター教室の生徒さんや佐伯ギタークラブのメンバーの演奏に耳をかたむけに足を運んだこと、大阪でのアンサンブルフェスティバルでの金賞受賞を喜んだこと、苫原先生の活動が認められることが、自分のギター音楽観まで認められているようでうれしかった。 また、「ギターより自信がある」という自慢のコシヒカリを送っていただいたときは驚きもし、物をもらったというより何か特別なもののようで本当にありがたかった。

本当なら働き盛りの年頃で、仕事の付き合いが多いはずの私の、失業中の身で世間様とは違う生活を送っている、どこか心の中にある隙間を埋めるよりどころにしている価値を認めてもらっていたように思う。苫原先生が亡くなった今になってそういうことにいかに無頓着に生きてきたかと反省する。

しかし、苫原先生と一緒に過ごした時間とその笑顔を思い出す時、再び喪失感が体を蝕もうとするその時、直感的に、これは体に良くないと感じた。失いっぱなしではいけない。やるべきことがあるのではないかという感覚が生まれた。50歳代でやっておくべきこと、両親との過ごし方、やがてくる死のこと、仕事のこと、そして先生のおかげで出会えた多くのギター仲間のこと、悩むことも考えることもあるけれど、人は何もかもなくしてはいけないんだという思いにかられた。

そう思ってもやはり苫原先生の笑顔が思い出されてくる。悲しくて寂しくて涙が出そうになるけれど、「てっちゃん、やったらええじゃ」と苫原先生が広島弁ではげましてくれてるようにも思える。(2010.10.21)


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