001 ヤモリの話

タンスの裏からヤモリが首を出している。タンスの茶色と壁の白い色がつくる境の縦に真っ直ぐのびた線に、小さな丸いスプーンの形をした黒い突起が見える。こちらの様子をじっとうかがって身動きしない。
 夕方、部屋の掃き出しの戸の雨戸を閉めようとしたとき、私が、そこにへばりついていた奴を見て「うえっあわわわ」と動転しているすきに部屋に入ってしまったのだ。奴は大急ぎでタンスの裏に隠れた。
 奴が外に出る一番の近道は、タンスの裏から出て、50センチくらい隣の本棚まで行き、そこを通りぬけて掃き出しの戸へ向かうこと。こっちは家の奥へ入り込まれては困るので、タンスの反対側をどんどんと叩いて威嚇した。するとしばらくしてタンスの本棚側から首を出してきたのだ。
「さあ次は本棚だ。早く行け」と頭のなかでせき立ててやる。ああいう生き物はもしかしたらテレパシーの様なものを感じるのかもしれないと思って、奴の視線になったつもりで小型カメラの様な視界を想像し、道順を教える。「こう行って、こう行くんだ」と頭のなかで考えてやる。「行け、行け」。しばらくすると、スプーンの形ちょっと動いたような気がした。ようく見ると左前足の先がちょっと見えるようになっている。「お、動きはじめたな」と期待する。体を少しずつタンスから出しはじめた。方向が少し上向きになっているのが気になるが、とにかく出始めた。どんどん出てくるが上に向かう。体半分をタンスに隠したまま止まった。そして逆にまたタンスの方へ戻ってしまった。
 やれやれと失望したが、気になってちらちらと見ていると、今度は下向きに体を半分だけ出してじっとしている。そして体をまたととのえて、スプーンの形をした頭だけを見せてじっとしている。だが、今度は次の行動に移るのは早かった。のそのそっと出てくると尻尾だけをタンスに残し、体をくねらせながら一気に隣の本棚まで渡りきった。「やった」と私は喜んだ。すると、今度は本棚のほうからまたスプーンが出ている。戻られては大変と、脅しにかかった。こちら側は駄目だと壁を叩いて威嚇する。奴はすぐに本棚の後ろに入った。こちらの予定通りである。
 戸はすでに開けてある。あとは本棚の後ろを通って、そこから出るだけ。外も暗くなってきた。出口のあり処を教えようと自分の部屋の明かりを消し母屋の部屋の明かりをつけて、出口から光が漏れてくるようにした。ところが、そうするとこちらから奴が監視しにくくなってしまい、見失う心配がでてきた。一時、本棚の端に奴らしき姿を見たように思ったが、暗くて良く分からない。どう見ても、本棚の直線がある一部分だけ曲線を描いているように見えるのだが、暗いので目の錯覚とも思える。また、逆もどりされては困るので反対側を何度か叩いて威嚇する。あとは戸から出るだけ、なのだが、何回も威嚇してしまったせいか、動かなくなってしまった。こっちは早く出てほしいといらいらし、戻りはしないかとますます不安になる。本当にいるのかなと思って隙間に電灯をあてて照らしてみると、本棚の中央付近にしっかりとへばりついていた。奴にしてみれば「そんなに叩いたり、光を当てたりしたら怖くて動けやせんじゃないか、あせっちゃうなあ」と冷や汗を流していたことだろう。
 こちらの頭に血が上るほどうまくいかなくなるようなので、賭けにでた。風呂に入ろう。その間、静かになれば奴だって、出たいだろうから安心して出ていくだろう。諦めてほおっておくようにした。

三十分後、風呂からあがってきて裏を覗いてみると、いない。どこか他に紛れたかとしばらく様子をみていたが、いる様子はない。どうやら脱出したらしい。さっきまでのタンスと本棚の間の白い壁を見ていると、奴の小さなため息が聞こえたような気がした。