高橋由雄さんの思い出


 高橋さんが市議会議員の四年間の任期中に一万件の生活相談をこなしていたという話は誇張ではありませんでした。いまでも政子夫人が宝物として大切に保管し、ときどきページをめくっているという遺品の手帳にはそんな生活相談の記録がびっしり書きこまれています。ある朝緊急な用で書類をもって高橋さん宅を訪ねたところ、間断なく電話が鳴り続け相談ごとを受けていた記憶もあります。いまでこそ携帯電話という便利な文明の利器がありますが、当時は高橋さんに連絡しようと思えば昼間や夕方はまず無理で、早朝に自宅に電話するか訪ねていくことが一番だということが市民のなかで噂されていました。

 相談ごとの内容は多岐にわたっていました。道路建設や側溝の修理、カーブミラー設置など交通安全対策、マンション建設問題、サラ金対策、年金や医療、生活保護、就学援助などなどあらゆる分野をこなし、どんな相談ごとでも「できません」と断ったことがないほどです。「請負主義ではないか」という批判もありますが、三井の故・石川進さんは、大きな手術の直前になって健康保険がきれていたことに気付き、一時は手術の中止を決意せざるをえませんでした。人づてに高橋さんに相談し、健康保険をつかって無事手術を終えることができました。石川さんはこのとき市役所の控え室で汗びっしょりになって膨大な書類を仕上げていく高橋さんの姿をみて「地獄で仏にあった」ような感動の思い出を後日語っていました。そしてその縁で石川さんは日本共産党に入党し、社会進歩のために身をささげたのでした。高橋さんがとりくむ相談ごとのなかでも交通事故問題は特別定評があり、噂を聞いて広島県からも相談に訪れる人がいました。このように高橋さんの信条は「弱い者の対場にたつ」であり、逆に権力の笠を着るやり方には容赦なく反撃していました。

 さて、世間では小回りがきく人は大きなことができないと言われていますが、高橋さんに限ってそんなことはありません。政治を大きく動かした人でもあります。「十五の春は泣かせない」が口グセの高橋さんが陣頭指揮をとって市民と日本共産党が力を合わせてかってない一万六千の署名を集め、光丘高校建設を実現させました。国や県の押しつけによる周南合併の動きにたいしては、光市議会内外で真剣勝負の論陣をはりました。昭和三十年代に光市に吸収合併された小周防のみるべき公共施設のない今日のありさまと、吸収合併を断り独自の町づくりをすすめてきた大和町を比較して、光市民が周辺部として扱われる周南合併に組みするべきでないと力説しました。この具体的で説得力のある話は保守系の議員のなかからも共感の拍手が送られました。高橋さんは二度定数二の光市区から県議会議員選挙に立候補しました。残念ながら当選しませんでしたが、二回とも金も権力もある現職候補に肉薄する得票であり、保守層のなかにも創価学会員のなかなどにも広いファンが多い、そんな人柄を実感させる結果でした。市民のなかには「共産党でなかったらトップ当選だろうに」と言う人もいましたが、どんなきびしい時代にも「国民こそ主人公」をつらぬいてきた日本共産党ならばこその人柄であったと思います。

 いまほど大銀行やゼネコン奉仕で国民には年金改悪や消費税増税を押しつける逆立ち政治をただそうという日本共産党の政策と国民の思いが合致する時代はありません。光市でも大型ムダ使いの典型である広域水道計画やお向かいの上関に原子力発電所を建設することはごめんという市民の声が高まっています。今日ここに高橋由雄さんの三回忌を迎えました。その人柄をしのびつつ、その霊前に目前にせまった新しい二十一世紀を高橋さんの遺志をついで「国民こそ主人公」の社会進歩のために力をつくすことを誓います。

         二〇〇〇年一〇月七日           四浦順一郎