「牛鬼(うしおに)」
 

 今から420年ばかり昔の天文年間(てんもんねんかん)、戦国時代のことである。
 この牛島には、1頭の牛鬼(うしおに)と呼ばれる怪物が住んでいました。この牛鬼は、悪事の限りを尽くし、人々を苦しめていました。あまりのひどさに、人々は島の外へ逃げ出してしまいました。
 ちょうどそのころ、四国は土佐の長宗我部(ちょうそかべ)家の家臣で、橘諸兄(たちばなのもろなお)の末裔に当たるという藤内図書橘道信(とうないずしょたちばなのみちのぶ)という人が、その弟の御旗三郎左衛門信重(おんばたさぶろうざえもんのぶしげ)と二人で牛島へわたってきました。ところが二人が島へ上陸しても、人家はあるのに人影がありません。不審に思って辺りを探ってみると、この島の住人と思しき漁師に出会いました。そこでいろいろ事情を尋ねてみると、漁師達は、口々に牛鬼の悪行を訴えるのでした。
 それを聞いた道信たちは、すぐに牛鬼征伐に向かいましたが、牛鬼は強く、とてもかないそうにありません。そこで二人はひとまず室積の浦へと退散しました。
 その浦の漁師に聞いてみると、隣の三輪村というところに弓の名人が住んでいるとのことです。道信たちは喜んでさっそく兄弟に会いに行き、弓を習いました。こうして十数日の後、道信たちは、ふたたび牛島にわたり、牛鬼を退治することができました。
 なお、この牛鬼征伐の話は、今も橘道信の子孫に当たる牛島の藤内家や、御旗信重の末裔に当たるという小川家にそれぞれ記録として保存されているそうです。


今ではお土産品にもなっています(牛鬼の土鈴)






「茂平(もへい)とタコ」

 

 昔むかし、牛島に茂平(もへい)という働き者の漁師と妻のお万(おまん)が、仲良く暮らしておりました。茂平は、箱メガネでタコを獲るのが大変上手でした。
 ある日、タコを獲るため平茂(ひらも)の方まで行きました。すると、大きな岩の陰にタコを見つけました。茂平はタコを獲ろうと思いましたが、タコは驚くほど大きく、なかなか獲ることができません。そこで茂平は家に戻って、一番大きな包丁を探し長いホコの先にくくり付けました。茂平は、急いで平茂(ひらも)へ引き返し、岩陰から出ている大きなタコの足を一本切りとって帰りました。島のみんなは「何とおいしいタコじゃ。」と大喜びで、いくらでも売ることができました。茂平は、「タコの足がどこで獲れたのか、決して言うでないぞ。」と、お万に硬く口止めをさせたので、タコの居場所は誰にも知られませんでした。
 5日続けて5本の足を売ると、お万は「タコも、足が全部なくなったらかわいそうじゃけぇ、もぉやめようやぁ。」と言いましたが、茂平は「まだ3本も残っとるじゃないか。もっともうけにゃ。」と、タコの足取りをやめませんでした。
最後の1本となった8日目のことです。茂平が、いつものようにタコの足を獲ろうとすると、タコの足がすごい勢いで向かってきました。そして茂平の首にクルクルと巻きつき、あっという間に海の中へ引き込んでいきました。茂平は「死んでたまるか。」と、包丁で必死に戦いましたが、とうとう茂平は生き絶え、タコも傷だらけになって死んでしまいました。
 茂平の帰りを待っていたお万は、茂平の帰りがあまりにも遅いので、島の若い衆を連れて探しに出かけました。平茂(ひらも)のところまでくると、死んだ茂平の首にタコの足がクルクルと巻き付いていました。お万はその場で泣きじゃくり、いつまでも立ち尽くしておりました。それから島の人たちは「平茂の茂平」と呼ぶようになり、決してタコを獲ることはなかったそうである。

 ※平茂付近はタコのよい漁場となっているので、よそ者を近寄らせないためにこんな伝説が生まれたのかもしれませんね。



平茂海岸の岩場…陰に大ダコが潜んでいるかも…






「丑森明神(うしもりみょうじん)」


 昔むかし、牛島に甚兵衛(じんべえ)という情け深い若者がおりました。牛と共に働き、牛のことを大変大事にしておりました。田から帰ると必ず海へ連れて行き「ご苦労さんじゃったのぉ。よぉ働いた。明日も、また頼むぜのぅ。」と体のすみずみまで洗ってやるのでした。牛も言葉が分かるのか、「もおー。」と嬉しそうに鳴くのでありました。
 ある日のこと、甚兵衛は、いつものように牛の体を洗い帰ろうとしました。ところが、牛はどんなに綱を引っ張ってもびくとも動きません。やっとのことで追い上げましたが、なぜか牛はのろのろ不機嫌でありました。その夜のこと、甚兵衛は真夜中に体が焼けるように熱いのに驚いて飛び起きました。すると、すでに辺りは火の海となり、甚兵衛が小屋にたどり着いた時には、哀れにも牛は目ん玉をひんむいて死んでおりました。「あぁ、牛は火事のことを知っておったのか。それで、あの時…。」
 それから数年のち、畑仕事をしていた甚兵衛が、ふと空を見上げると牛の形をした黒雲(くろくも)が島全体にゆっくりと覆い被さってきました。「やや、あれはワシがかわいがっていた牛だ。これは大変じゃ。今夜は火事がおきるぞ。火の用心をしないと…。」急いで甚兵衛は皆に知らせたが、みんなは笑ってばかりで誰一人本気にしません。ところがその夜、島はどこから出たとも分からない火に包まれ、一夜にして灰になりました。それからも、島は原因の分からない火事が絶えませんでした。「もしや、甚兵衛さんとこの牛のたたりでは…。」村の人たちは、たたりを静めるために墓を建てることにしました。墓には「丑森明神(うしもりみょうじん)」と刻みました。これで牛も安心したのか、以後、島には火事がおきなかったそうです。


現代の丑森明神・光市消防団第七分団機庫






「幻の船」


 徳川時代の終わり頃、じめじめした梅雨どきのある日のことです。牛島の木下の与兵衛(よへえ)が、まだ夜の明けきらぬうちに、牛を連れて畑仕事に行きました。その朝は、やけに夜ガラスが気味の悪い声で鳴く気味の悪い朝でした。夜があける頃に海附(かいつけ)の畑に着きました。するとどこからか、大船(おおぶね)の艪(ろ)を押すかけ声が聞こえてきました。

 「ヒッチョー、コウバイ、ハッチョーエー。」

 海附(かいつけ)の鼻はすぐ近くのはずなのに、その日に限ってさっぱり見通しが利きません。与兵衛は身を乗り出しでびっくりしました。一隻の大船(おおぶね)が海附(かいつけ)の鼻に横倒しになっているではありませんか。大船は、千石船で大変立派でしたが、帆柱は3本とも中ほどから折れ、ズタズタに裂けた白い帆が、人気のない船の上に覆い被さっていました。艪の音はまだ続いていて

 「ヒッチョー、コウバイ、ハッチョーエー。」

というかけ声もまだ聞こえてきます。与兵衛は恐くなって息を殺して隠れていましたが、恐いもの見たさから、そっと覗いてみました。すると不思議なことに、大船がかき消すように消えてしまっています。与兵衛は、恐くなって家へ逃げ帰りました。
 女房のチトにこの事を話すと、「あんたは知らなかったじゃろうけど、10日ばかし前に海付(かいつけ)の瀬で豊後(ぶんご)の船が座礁して、えらい騒ぎでしたでに。島におった男し(おとこし)のなかにゃ、こっそり積荷を拾ぉて戻ったもんがおるそうな。」「へぇー、そんなことがあったんか。」「積荷を拾ぉて戻った男しの家へ、ついこの間のこと、立派な身なりのお侍が二人やってきまして、えらいけんまくで、拾ぉたものを戻せ、書き付けを出せとどなっちょったそうな。あとで分かったことじゃけんど、船で死んだお侍じゃったちゅうことですよ。」

 ※なお、当時水死した船主(ふなぬし)の鍵屋亀吉さん、俗称「亀さあの墓」は海附岬の突端に今も残っているそうです。


海附鼻付近(2005年3月・牛島朝市にて)


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