徳川時代の終わり頃、じめじめした梅雨どきのある日のことです。牛島の木下の与兵衛(よへえ)が、まだ夜の明けきらぬうちに、牛を連れて畑仕事に行きました。その朝は、やけに夜ガラスが気味の悪い声で鳴く気味の悪い朝でした。夜があける頃に海附(かいつけ)の畑に着きました。するとどこからか、大船(おおぶね)の艪(ろ)を押すかけ声が聞こえてきました。
「ヒッチョー、コウバイ、ハッチョーエー。」
海附(かいつけ)の鼻はすぐ近くのはずなのに、その日に限ってさっぱり見通しが利きません。与兵衛は身を乗り出しでびっくりしました。一隻の大船(おおぶね)が海附(かいつけ)の鼻に横倒しになっているではありませんか。大船は、千石船で大変立派でしたが、帆柱は3本とも中ほどから折れ、ズタズタに裂けた白い帆が、人気のない船の上に覆い被さっていました。艪の音はまだ続いていて
「ヒッチョー、コウバイ、ハッチョーエー。」
というかけ声もまだ聞こえてきます。与兵衛は恐くなって息を殺して隠れていましたが、恐いもの見たさから、そっと覗いてみました。すると不思議なことに、大船がかき消すように消えてしまっています。与兵衛は、恐くなって家へ逃げ帰りました。
女房のチトにこの事を話すと、「あんたは知らなかったじゃろうけど、10日ばかし前に海付(かいつけ)の瀬で豊後(ぶんご)の船が座礁して、えらい騒ぎでしたでに。島におった男し(おとこし)のなかにゃ、こっそり積荷を拾ぉて戻ったもんがおるそうな。」「へぇー、そんなことがあったんか。」「積荷を拾ぉて戻った男しの家へ、ついこの間のこと、立派な身なりのお侍が二人やってきまして、えらいけんまくで、拾ぉたものを戻せ、書き付けを出せとどなっちょったそうな。あとで分かったことじゃけんど、船で死んだお侍じゃったちゅうことですよ。」
※なお、当時水死した船主(ふなぬし)の鍵屋亀吉さん、俗称「亀さあの墓」は海附岬の突端に今も残っているそうです。
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