高杉晋作と伊藤俊輔




中央が高杉晋作、右が伊藤博文(当時は俊輔)です
(左の坊やは、高島某くん(^.^)だそうです)
伊藤さんは、俊輔、博文と名前を変えていますが、
これらの名前は全て高杉晋作が考えたものだそうです。
また雅号・春畝(しゅんぽ)の名付け親も晋作さんです。

これについて、晩年、伊藤さんは…

「…高杉晋作が論語の『博約以文』を引用し、「『博文』と改めるべきだ」
と勧めたので、これに従った。高杉は面白い男で、しきりに私の名前の世話を焼いてくれた。
『利助』を『俊輔』に改めるべきだと主張し、後に『俊輔』と音が同じなので、
号を『春畝』とするように勧めるので、私は「どれも大変結構だ」とそれ以来彼の言う通りにしてきた。
高杉は才学郡を抜き前途有望だったが、不幸にして肺病で夭折してしまった。本当に残念なことだ…」

…と語っていたそうです。




井上馨と伊藤俊輔




伊藤俊輔(左)と『心の友』井上聞多(右)
「この写真をポストカードにしてください」という要望多数(マジで)。
1万枚ぐらい売れるなら、僕が作ろうかな…。





子どもたちと伊藤博文




伊藤さんと子どもたち。
(左から勇吉、生子、朝子)
勇吉くんは後の伊藤博邦さん
生子さんは「防長回天史」の著者・末松謙澄さんの奥さん
朝子さんは外交官・西源四郎さんの奥さん

長女を早くに亡くした伊藤さんは、特に生子さんをかわいがっており、
常々「お前に肝心のものがありさえすれば、わしの跡を継がせるのに。
おまえは生まれる時に肝心のものを忘れてきてしまったなあ」
と幼い生子さんに話していたそうです。
さて「肝心のもの」とはなんでしょう?(わかりますよね…




一番若い頃の写真は?




現存している一番若い頃の写真(23歳)
丁度ヨーロッパへ密留学する直前の写真らしいです。
「表情を見ると、「死ぬ覚悟」がうかがえる」と言った方もありました。




徳川慶喜との接点




大河ドラマで話題だった徳川慶喜さんもいます!(写真右端)
これは、明治42年に伊藤さんの国葬に参列した時のもので、公の場での写真としてはおそらく最後のものではないかと思われます(しかも正装してる)。
伊藤さんと慶喜さんについては、伊藤さんが「どうやって大政奉還を決断したん?」と聞いたところ、
慶喜さんが「死んだ父ちゃんの教えに従ったんでい!」と答えたという逸話が残されています
(台詞は一部フィクションです(^^ゞ)。





伊藤博文『究極のメニュー』




伊藤博文『究極のメニュー』?

幕末に英国の通訳として活躍したアーネスト・サトウ(1843〜1929)の著書
『一外交官の見た明治維新』によると、伊藤さんが元治元(1864)年に4国連合艦隊
との講和会議後、前年の英国留学経験を基に知恵を絞り、サトウを西洋風料理でもてなしたとあります。

「…最初に出し料理は丸煮の魚にて、なかなか切りにくかりしかば、予は箸をその
頭へ突き刺し、匙で肉を剥がして食らいたり。醤油壷や、飯を盛り上げたる大鉢や、
粗製塩を入れたる小皿など机上に並べあり。2番目がウナギの蒲焼、その次はスッポン
のシチューが出しが、これはどちらもうまかりき。続いて出しはアワビの塩蒸と鶏肉の
水炊。この2品は批評の限りにあらず。刃の鋭く首の抜けそうなるナイフで鶏肉を切るのゆえ甚だむつかしかりき…」

サトウは、「何はともあれ、日本において西洋風の晩餐を試みたるは、これが最初なりしならん」と珍しがったそうです。
もちろん、長崎などでは古くから西洋風の食事もあったのでしょうが、
素人の日本人が数少ない知識を基に、文字通り『ご馳走』したのは初めてだったのかもしれません。
上の写真は、1998年3月24日に、山口朝日放送が『5時からワイド』という番組の中で、
「元祖やまぐち日本一・番外編 伊藤博文の作らせた幕末の西洋料理再現」
として、東亜大学・和仁教授の監修、山口市の割烹『亀石』のご主人・亀石和彦さんの調理で再現したものです。


食の話題ついでに、伊藤さんの好物は…

番茶、梅漬(梅干)、食塩を入れた茶漬、粥(梅子夫人手作りのものが最高)、豆腐、
フナ・コイのせごし、刺身(新しくて珍しいもの)、野菜や肉をスープで煮込んだシチュー、
ぶどう酒、すき焼き(特に猪肉)、唐辛子の葉の煮物、麺類

…ずいぶんあるねー!(^o^)!





旧千円札第1号券テレカ




これぞ、旧千円札1号券テレホンカード(50度数・1,000円)。
テレホンカードの存在自体が今やレア
伊藤公記念公園前の『あけぼの屋』で取り扱っていました(過去形…)。
ちなみに、写真の品は資料館開館記念の限定版ゴールドで、通常版は黒でした。





伊藤公生家で一家団欒?




伊藤公生家内部で一家団欒?
これは、伊藤さんが6歳当時の一家の様子を再現したお人形さんたちです。
昔なら「ろう人形」と呼ぶんでしょうが、現代は「FRP人形」になっています。
伊藤さん(当時は利助くん)の顔は、骨相学による想像ですが、なんとなくお母さんにそっくりです。
以前、旧大和町の前町長さんに「男の子だから、お母さんにそっくりなんです」
と説明したら、妙に納得されていました。





柿の木と利助ちゃん




伊藤さんの萱葺き屋根の生家裏に柿の実が…。
これ、じつは幼少時の伊藤さん(当時は林利助くん)と関わりのある木なのです。

利助くんが「兄貴」と呼んでいた幼なじみの林丑ノ助さん(故人)の証言として、次のような
幼少時のエピソードが残されています。

『ある日、わしが利助ん方の裏の柿の木に登っちょると、下から棒で突つく者がおる。
誰かと思うたら利助じゃった。「せからしい、やめんか!」ちゅうてもいっそやめん。
次ん日、今度は利助が木に登っちょった。ごうがわいた(腹が立った)んで、こんだあ
わしが下から棒で突ついちゃったら、「兄貴やめんかい」ちゅうて半べそをかいちょったいね。』

この柿の木のU世木は、今も生家裏に残っています(上の写真がその柿の実です)。







あなたはだあれ?




最近入手した絵葉書(というかブロマイド?)です
(写真をクリックすれば全体が表示されます)
明治初年の伊藤さんだそうですが、向かって左隣の僕ちゃんは誰なんでしょ?
「高島某」くんでもなさそうだし…