<旧伊藤博文邸(伊藤公記念館)>

伊藤公記念公園に入るとまず見えるのがこの建物です
博文が建設を命じたものの、その完成を見ることなく亡くなったといういわく付きの建物で
平成8年前まではここが展示施設として使われていました。


◆伊藤公記念館まめ知識◆

◎建設の目的

 伊藤公がこの別邸を建てた真の目的は、自分の生まれた場所を後世に伝える記念館にするためではなく、
公の遠祖・林淡路守通起の没後 300年にあたり、
林一族および伊藤家を集めて法要を行うためでした。そして、法要を行った後は、
地元に寄付して図書館や公民館として利用してもらおうと考えていました。
 明治42(1909)年、公は満州旅行の直前に、生家の近くに自分が帰国するまで
に別邸を完成させるようにと指示しましたが、公は同年10月26日にハルビン
(現・中華人民共和国東北地区)で暗殺され、館の完成を見ることなくその生涯を終えました。



主を迎え入れることがなかった館内


翌年の明治43(1910)年5月に別邸は完成し、公の嗣子・伊藤博邦がその遺志を継いで法要を行い、
その後、この別邸は伊藤家から山口県に寄贈され、『伊藤公記念館』として山口県教育会が管理していました。



◎記念館の概要

 ・木造モルタル2階建 293.08u
 ・総工費 21,291円38銭(現在の貨幣価値で約 7,500万円)
 ・基本設計は伊藤公
 ・施工は下関の清水組(現在の叶エ水建設)



当時の展示室内部


◎その後の記念館

 山口県が管理していた記念館は、昭和27(1952)年に大和村(現在は光市)に無償で払い下げられ、
公の遺志であった公民館として活用されました。また、遺品約50点を展示し、管理人を住み込ませて
建物の管理や来館者の案内などを行っていましたが、昭和54(1979)年4月に管理人住居
(現在の記念館裏にあった)が老朽化し、管理人が不在となってしまいました。
そこで、同年8月に管理人住居の解体と防犯装置、自動案内装置の設置を行うとともに、
展示内容の充実を図り、約 150点の遺品を展示する施設として生まれ変わりました。
しかし、建物の老朽化が進んで見学にも遺品の収蔵にも支障が生じてきたため、
平成4(1992)年から始まった『伊藤博文公生誕 150年記念事業』で伊藤公資料館が建設されることとなり、
伊藤公記念館は平成8(1996)年11月30日をもって展示施設としての役目を終えました。
(ちなみに資料館は平成9(1997)年9月2日オープン)
現在は、県指定有形文化財・旧伊藤博文邸として保存されており、伊藤公記念公園のシンボルとなっています。
平成16年3月30日に修復工事が完了し、内部も一般公開されています。