Story/ストーリー


優しい空

 「だって、ほら。たったこんだけ。そんなワケないのに。」
 そう言ったエイジの膝の上に開かれたノートの上に、ポツンとひとつ、しずくが落ちた。
私はそんなエイジの顔見たくなくて、じっと膝の上の、ノートの上の「それ」を見てた。
吸収もされず、風に吹かれるでもない「それ」は、ずっとそのままそこにあって、まるで今のエイジの八
方塞がりな状態を表すかのようだと思った。
 エイジは今、何処に居るんだろう。
確かに私の目の前に居るのに、何光年も遠くへ飛んで行っちゃった様に感じた。

 私が悪かったんだ。知ってる。
八つも歳が上だし、そんな事解かってる。
なんでも知ったかぶりの私は、実は何も解かっちゃいないという事も。
ほんとうは、エイジの方こそ一生懸命の姿勢を貫いたって事だって知ってる。
知ってるのに認めようとしない自分の幼稚さも、勿論解かってる。
煮詰まってしまっていた。
 救いを求めるふりをして、エイジの顔を素通りして空を見上げた。
周りの視線が気になって、少し上目遣いになった。
これから夏に向かう空は、とりあえず晴れている。
都心に近い割には子ども連れのお母さんが目に付いて意外だったけど、考えてみればここは公園、し
かも平日の昼過ぎなんだからそれも当然なんだ。
キラキラと踊るような子ども達の声が、思い出したように機能し始めた私の耳に届いてきて、同時にエ
イジの鼻をすする音も聞こえた。
 若い母親達の瞳に、私達はどんな風に映っているんだろう。

              

 資産を全部書いてこい・・・なんて、父さんの嫌がらせの外ないのに、ムキになって書き出してみれば
それは、ノートの1ページ目の数行のうちにおさまってしまった。
二十歳(はたち)にも満たないエイジが鼻を赤くして嗚咽する程、それは私達にとって必要ものなんだろ
うか。
ワンドアの冷蔵庫や原動機付きバイクや貯金の残高が、エイジの生きてきた人生を語ってくれるとでも
言うんだろうか。
 「くやしい。」
 と言って泣けるエイジをうらやましく思った。
 「でも私は大丈夫。」
 と、大人ぶる自分はもう要らないと思った。
人の目を気にする理性も、最初から必要なかったんだと気付いた。
 勿論、資産なんてなんの意味もない。

 夕方が近くなったんだろうか、少しづつ親子たちが帰っていく。
ノートの上のしずくは、もうすっかり乾いて消えていた。
エイジは相変らず鼻をすすってはいたけれど、もう泣いてはいなかった。
私はといえば、まるで何光年も飛んできたかのように疲れていた。
 ・・・そうだったんだ。
ここに居なかったのは、エイジではなくて私の方だった。

 「エイジだけでいい。」
 口の中でころがしてみる。
 「なに?」
 覗きこむエイジの顔をしっかり見つめて、今度は少しだけ思いきって空を見上げた。
雲が増えて泣き出しそうになった空だけど、ぎらぎら眩しい空より今の私には優しかった。
 分かったのか分からないのか、エイジは立ち上がり私の手をつかんで歩き出す。
私は、いつもより歩幅を広げて横に並んだ。







ドッグ タイム

 「あたしたちってさぁ、アレみたいだよね。」
アイコが、食後のちょっとかったるい時間の中でつぶやく。
アイコはよく「アレ」でなんでも表現する。
付き合い始めて最初の頃は、その都度
 「アレって何?」と、聞き返した。
僕はどちらかというと事を曖昧に済ますのが嫌で、自分の中で確実に処理したい方なんだ。
何に対しても。
 「アレって言ったら アレだよ。」
面倒くさそうにアイコは答え、僕はちょっとムっとして、そして仕方なく曖昧に相槌を打ち話しがなんとな
く終わる・・・そんなことにも慣れてしまった。

 だけど僕はアイコが好きだ。
2ヶ月前に道端で出会ってから、ずっとアイコが好きだ。
きっとこれからも好きだ。
いや、もっと好きになるだろうと思っている。
だから、今こうして一緒に暮らし始めたことに満足している。
曖昧なところもひっくるめて、僕はアイコを好きなんだと思う。


 
「これ、おいしいよ。意外に。」
さっきのはなしが、一体なんだったのかも分からないまま、アイコは僕の前にスーパーのタイムサービ
スで買ったというさくらんぼの皿を押しやった。
なんでかな・・・僕はむかしからさくらんぼが好きじゃない。
遠足の時、決まって一個弁当箱の隅に入っているさくらんぼは、つぶれて、おまけにとなりのカマボコ
にあの毒々しい赤色を移して、ついでにそのまたとなりのミートボールのケチャップにまみれてた。
決まってそうだった。
 「・・・だから、いらない。」
テーブルの向かい側のアイコは、ちょっと僕の顔をみて、そして笑った。
 「今食べて、おいしけりゃそれでいいのに。」
だからといってそれ以上勧めるでもなく「ふーん・・・」と、言ったっきり黙ってテレビに目をやった。
そしてひとしきり内容の薄っぺらいドラマの一応最終回を見終わって、トイレにでも行くのかアイコは立
ち上がった。
 「じゃあね。」
 「え・・・何?買い物?」
 「ううん。あたし、帰るわ。うちに。」
 「うちって・・・」
僕は混乱していた。
アイコははっきりそう言ってる。
いつになくわかりやすくそう言ったじゃないか。
何か怒らせることでもしたんだろうか。
気を使わせない子だったのですっかり僕はいつものペースだったけど、、ひょっとしたら何か負担があっ
たんだろうか。
僕は、いつになくあたまの回転をフルスピードにし、あれだろうか、これだろうかと、宙に視線をさまよわ
せながら考えていた。
僕は・・・混乱していた。

 「ドッグ タイムって知ってる?」
僕はしだいにうつろになってきた目でアイコを見た。
 「あれみたいだよね、あたしたち。」
いつもと変わらず、大きな目を向けてアイコが言ってる。
 「短かったけどね、楽しかったよ。」
 「ドッグ タイム・・・?」
声がかすれてしまっている。
きっと捨てられた子猫のように情けない顔をしてるだろう。
 「犬って、人の何倍ものスピードで生きてるっていうじゃん。」
アイコはいたずらっぽい目で笑っている。
 「ちょっとカッコイイよね。それって。」
言いながら、アイコはどんどん手近にある自分の荷物をまとめ始めている。
僕は既に諦めていた。
きっともう、どうすることもできないんだろう。
アイコがそう言うんだから、そうなんだろう。
僕は、ただただ荷物を作るアイコの手元を見ていた。
その手は、気持ちいい位てきぱきと動き、とてもさえぎれる間合いを見つけることはできそうになかった。
 「さくらんぼさぁ・・・」
靴を履きながら振り返ったアイコが言う。
 「ためしに食べてみれば?」

 アイコが出ていった部屋で、テーブルの上のいくらか残ったさくらんぼが蛍光灯の光に照らされている。
あの時の弁当のさくらんぼとは全然違う、もっと無機質で寂しい色だ。
きっと僕は二度とさくらんぼを好きにはなれないのだ。
さくらんぼを好きじゃないからって、べつに何の支障もないけれど。
だから別にいいんだ。
・・・曖昧が嫌いな僕が、曖昧にごまかそうとしていた。
本当のさくらんぼの味を知らないまま、僕は流しにそれを捨てた。



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