神舞の由来
仁和二年(886年)当時の領主片見貞信のの命により山城国石清水八幡宮の御分霊を勧請して伊美別宮社に奉斉する時、桐畑盛重、小深田盛勝が供奉しての帰路、嵐に遭い祝島の三浦海岸に漂着しました。この時祝島には三軒の民家がありましたが、島の人は神を祀ることや農耕の道を知らず、厳しい環境の中にありましたが、一行を心よりもてなしました。
それを機縁に伊美別宮社宮司は、この島に荒神と大歳神を祀らせ、麦の種を渡して農耕の技を教えました。それにより祝島は人家も増え、人々は健康に暮らし、次第に繁栄するようになりました。
そのお礼にと祝島から伊美別宮社に『お種戻し』と称し毎年参拝するようになりました。
そして別宮社から四年ごとに新幣を奉持して海上を渡御する祝島への御神幸を、御神霊と側近奉仕の宮司・禰宜と別宮社里楽師により、祝島を斎場にして神恩感謝の合同祭事として大祭が執り行われることになりました。
神舞神事とは一口で言えば神舞を奉納する祭りであり、古代の恩に感謝し、別宮社の御神霊にお供え物をもてなし、神舞を奉納してお慰めする神事です。
大分県と山口県との階上49㎞を三隻の神様船が往復し、奉迎船や櫂伝馬船による入船出船神事があり、伝統にのっとり、古式豊かに神舞が奉納されます。

   
三浦海岸の上の荒神山に祀られている社2024.10.5 左側の 一基は戦後に新しく据えられたと言う
ことです。

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